【国会レポート】競争と弱者救済のバランスを政治はどう取っていくのか【2005年6号】
『国家の罠外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)という本が今、永田町で大変話題になっています。著者の佐藤優被告はロシア外交のプロとして鳴らした外交官でしたが、2002年5月にいわゆる「鈴木宗男事件」に関連して背任および偽計業務妨害の容疑で逮捕されました。以後512日間も拘置生活と独房生活を送って保釈後に書いたのがこの本ですが、私が刮目したのは、現在の日本では「内政におけるケインズ型公平分配路線からハイエク型傾斜分配路線への転換」が起こっていると分析している点です。
周知のようにケインズもハイエクも歴史上の著名な経済学者で、ケインズは官の政策による富の公平な分配を説き、ハイエクは個人を重視し経済的な強者がさらに強くなることで社会が豊かになると主張しました。ただしハイエクの考え方の根本は強者の牽引力によって弱者の生活水準も引き上げるというものです。
橋本政権の時代に始まった日本の金融自由化も小泉政権がそのアクセルを極端に強く踏んだ結果、経済的な強者はより強者になっていきました。ところが現状では、強者が弱者を引き上げるという役割を果たさず、弱者は取り残されたままになっています。つまり、今の日本はハイエクの考え方とはまったく違う方向に進んでいて、経済的な強者と弱者とに二極化しつつあるのです。小泉政権発足後のこのような経済的な転換はまさに日本社会におけるパラダイムシフト(枠組みの変化)にほかなりません。
具体的な例を挙げてみましょう。先日、大学時代の友人に会いました。彼の勤める企業はこの10年間リストラなどでもっぱら事業の効率化に務めてきたそうです。その結果、この夏のボーナスはもう少しで400万円を超えたそうです。日本では働く人たちの約8割がサラリーマンですが、その中で1回のボーナスで400万円に迫る金額を受け取れる人は一握りでしょう。小泉政権が4年間続いて、ごく一部の恵まれたサラリーマンとその他大勢のサラリーマンに二極化してしまったわけです。
個人の自己主張もなく労働組合の組織率も低下
なぜ日本では経済的な強者が弱者の生活水準を引き上げずに二極化してしまったのでしょうか。これはアメリカの場合を考えるとよく理解できます。日本ではアメリカは競争主義の権化のように思われていますが、実際にはその前提に、個々人がしっかりと権利主張をする社会、また企業独占についても強い規制がかかっている社会があるのです。
日本ではどうかといえば、個々人の自己主張が弱いというのは以前から指摘されてきたことですし、かつて春闘などでパワーを発揮した労働組合の組織率も低下する一方です(終戦直後60%以上だったが2004年6月末時点で19.2%)。そのため、今は集団的に労働組合が会社側と交渉することが減ってきた反面、個別的労働紛争と言って各個人が会社と交渉するケースが増えてきています。個人だとなかなか会社と対等に渡り合えませんから弱者の声が会社に反映される可能性も非常に小さくなってきました。
小泉政権後の変化に対応した政策を
そうした中で金融の自由化によって極めて競争主義的な社会環境が整えられてきたのですから、強者と弱者が二極化するも当然でしょう。首相の諮問機関の「規制改革・民間開放推進会議」(宮内義彦議長)での議論も文字通り規制改革や官の事業の民間開放のみに終始し、弱者を守るという観点が抜け落ちています。要するに競争が前提となった社会の中で弱者救済のバランスをどう取るかということです。
とはいえ、これまでの政策は小泉政権ができる以前の社会(パラダイム)に基づいてつくられています。政治はこのパラダイムシフトに対応できていません。したがって、小泉政権における4年間の変化を前提として日本の制度をどう設計していくか、言い換えれば、バランスの取れた競争社会をどう創り上げるかがこれからの政治家に最も強く求められると思います。
その場合、現時点で私が大きなポイントだと考えているのは「賃金」です。私は1980年代までは企業の資金を賃金よりも設備投資に配分したほうが経済成長が促され社会全体が豊かになると考えていました。しかしながら、今はただでさえ労働人口が減っているし、今後進行する人口減少社会で経済規模を拡大するには、やはり賃金を増やしていくしかありません。
賃金を増やすことには未婚率を下げる効用もあります。年収別未婚率という調査によると30~34歳の男性の未婚率は年収200~300万円だと54.1%なのに対し300~400万円は33.22%。この収入差で実に2割以上も未婚率が違います。収入が少なくて結婚できないならやはり政策的なフォローが必要でしょう。賃金を上げることによって、未婚率が下がり、出生率が上がり、きちんと社会保険を払ってくれる人たちが増えるという好循環を築いていく必要があります。
また、同一価値労働は同一賃金だというように、同じ仕事をしたらアルバイターやフリーターでも正社員と同じ給料がもらえるといった仕組みも社会の中にしっかりと埋め込んでいかなければなりません。
企業の余剰資金は配当より賃金に回すべきだ
では、その賃金の原資はどこにあるか。有力なのは企業の余剰資金です。余剰資金を持つ企業の多くは無借金ですが、無借金企業の割合は1993年度の約8%に対し10年後の2003年度には約22%へと増えています。しかもその総額は2004年で82兆円と推計されています。これは日本の国家予算にほぼ匹敵します。つまり、国家予算並みの余剰資金が企業の中に貯まって、それが賃金として外に出てこないのです。最近では外国の株主を中心に「余剰資金を配当に回せ」という圧力も強まっていますが、配当を出すよりも賃金で支払ったほうが国内経済にプラスになり、それはさらに次の需要を生みます。この点はこれから政策課題として検討していきます。いずれにせよバランスの取れた競争社会をどう創り上げていくかというパラダイムシフトに対応するには、家族や教育、労働契約、企業独占などのあり方についての広汎な法整備が不可欠です。