【国会レポート】日米同盟関係の維持には不断の努力が必要だ!!【2006年1号】

私は民主党の内閣府担当として沖縄問題にも取り組んでいますので、このほど前原誠司代表と一緒に沖縄に行って、稲嶺恵一知事をはじめ関係者の方々と率直な意見交換を行い、そこで改めて日米同盟関係のあり方について深く考えさせられたのでした。

折から、日米両政府の協議により沖縄の米軍「普天間基地」が沖縄県にも名護市にも相談なくいきなり名護市辺野古の<海岸>への移設に変更され、沖縄では大問題となっていました。もともと普天間基地は1999年に辺野古の<沖合>への移設が固まり、2002年7月に日本政府も辺野古沖合移設を閣議決定していたのです。

なお、私たちにはミュージシャンで民主党参議院議員の喜納昌吉さんも同行しました。彼が作詞作曲した「花〜すべての人の心に花を~」は世界60カ国で3000万枚以上売り上げている名曲で皆さんもよくご存じだと思います。

東南アジア文化圏の雰囲気が強く漂う沖縄

私が初めて沖縄に行ったのは7、8年前。まだサラリーマンの頃でした。沖縄の時間の流れ方は日本本土とは違ってゆったりしていることにまず新鮮な印象を受け、さらに沖縄の国際市場に行ったところ、その雰囲気がベトナム・サイゴンや韓国・釜山の市場によく似ていることに驚きました。たとえば釜山の市場では1階で買った魚介類を2階に持って行くと料理して出してくれるのですが、国際市場も同じシステムがあるのです。そうしたことから沖縄は東南アジア文化圏の雰囲気が漂う地域だという実感も強く持ちました。

近い将来、沖縄には「科学技術の振興」と「アジア・太平洋地域の国際交流拠点」を目的に「沖縄科学技術大学院大学」が設立されることになっています。東南アジアの留学生たちは東京に来ると気候や人情が合わず、日本を嫌いになって帰国すると言われていますが、この沖縄の風土は東南アジアの人たちにも非常に合っていると思います。沖縄に留学すると日本は馴染める国だという印象を持って帰国してくれるに違いありません。

戦闘員より多かった沖縄戦での民間人の犠牲

沖縄の歴史を振り返ると、1609年に薩摩藩によって征服された後も清国に対して朝貢し琉球王国の地位を維持したのですが、1879年(明治12年)に王国体制が廃されて沖縄県となりました。太平洋戦争末期の1945年3月~6月、沖縄では日米による最後の地上戦が行われ、日本軍将兵約6万6000人、県出身軍人・軍属約2万8000人の戦死者のほか、一般県民約9万4000人が犠牲となったのです。県民のなかには集団自決や軍命による強制移住でマラリアにかかって死亡などの戦死例があり、戦闘員よりも一般住民の戦死者が多かったという事実に沖縄戦の悲惨さが如実に表れています。

多くの県民を犠牲にしたことから大田実海軍少将は自決前に海軍次官に次の電文を送っています。「(前略)沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」(1945年6月6日付・玉砕の決別電)。つまり、「沖縄県民は多くの犠牲者を出しながらもよく戦ってくれた。県民に対して平和の世になったら格別の配慮をしていただきたい」ということです。

沖縄を理解し政治をしてきた戦後の政治家

以上のような歴史的経緯ながらも、戦後、沖縄は①米国領、②国連の信託統治、③琉球政府として独立といった選択をせずに日本に帰ってきてくれました。また、日米安保条約を前提に国際社会の枠組みができて平和を享受したことで日本の戦後の経済成長が成し遂げられた面もあるでしょう。現在、沖縄には面積比で日本の米軍基地の約75%が存在しています。日米同盟関係にとって非常に重要な地域なのです。

そうした事情もあって、戦後の日本の政治家は沖縄に対して丁寧に対応してきたと言えます。その結果、日本政府と沖縄との関係は良好でしたし、私が稲嶺知事と会ったときも、沖縄のために尽力してくれた政治家の名前を懐かしそうに語っていました。

稲嶺知事は基地移設の問題について、辺野古の<沖合>で合意していたのに、日本政府が米国だけと協議して勝手に<沖合>から<海岸>変えてしまったので、それを強行した場合、沖縄でも本格的に移設反対運動や反米運動が起こるかもしれないと懸念していました。しかも、辺野古の海岸への移設という案は日本政府が持ち出したもので、米国の意向ではありません。米国は日本案に便乗したのでした。

<海岸>がなぜ問題かというと、地元の人たちにとっては年何回かお祭りをする神聖な場所だからです。<沖合>でも反対運動がありましたが、それは沖縄以外から来た人たちが中心でした。しかし、<海岸>だと地元の人たちの感情を直接逆撫でするので、名護市の人たちはもちろん沖縄全体の怒りにも火を点けるかもしれません。冗談ながらも「沖縄独立運動に発展するかもしれない」という人もいるくらいです。

問題を放置した日本政府の怠慢は責任重大だ

移設問題は1999年に辺野古の<沖合>の案が固まったのに、なぜまだ解決していないのでしょうか。それはやはり、移設問題をほったらかしにしてきた日本政府の怠慢が最も大きな原因だと思います。小渕政権までは沖縄サミットを行うなど沖縄問題を政治の中心に据えてきたのですが、特に小泉政権になってから沖縄への対応が丁寧ではなくなってきました。<海岸>への移設が行き詰まった場合、米国はその見返りを日本政府に要求できますから痛くも痒くもありません。今回の唐突な移設場所の変更は日本の国益とっても大きなマイナスなのです。

日米同盟重視とされる小泉政権が、この沖縄の感情が混じった入り組んだ問題を放置してきたのは、結局、日米同盟に対する理解がなかったと思わざるを得ません。同盟関係というものは意外に脆いと言われていて、今回の問題は日米同盟を揺るがすことすらあり得るのです。

戦後、歴史をよく知っていた日本の政治家は沖縄問題を丁寧に扱ってきました。そのことで、沖縄に無理を強いているにもかかわらず、沖縄県民はそれなりに納得し、日米同盟関係は安定してきました。しかし、今回の小泉政権の怠慢は過去の歴史への目配りにも欠けています。過去に盲目であることは現在に対しても盲目なのです。

また、政治家に求められる資質の一つに説得力が挙げられます。沖縄県民に丁寧に説明して理解してもらうことが必要ですが、それも今の政治には欠けています。私は、利害関係者と十分に話し合い、個々の事情にきちんと配慮するという丁寧な政治を心がけていきたいと思っています。もちろん、ときには辛い決断が求められるわけですが、その土台に丁寧な政治があれば、辛い決断であっても飲み込んでもらえると信じています。