【国会レポート】歴史的な事実を見据えて将来を見通した対応が大切【2006年8号】
私はこの夏の9日間、衆議院派遣の公務として同僚議員4名と共にドイツとリトアニア(戦前ここで日本の杉原千畝総領事がビザを発給し続けて4000人を超えるユダヤ人をナチスの迫害から救いました)を訪問しました。本来の目的は両国のテロ対策と少子化問題についての専門的な調査です。しかし、個人的にはそうした調査の合間に訪れた歴史的な施設に強い印象を受けましたので、今回はそれに関連して述べてみたいと思います。
風化しつつあるダッハウ強制収容所
皆さんは、ドイツのミュンヘンと聞くと何を想像されるでしょうか。ビールの本場ということで世界的に有名ですが、歴史的には何と言ってもナチス発祥の地として知られています。ミュンヘンの近郊にはナチスのダッハウ強制収容所跡があって、今回のドイツ訪問で私も初めてそこを視察しました。
ナチスは1933年1月に政権を取った直後、まず国内各地に次々と強制収容所を設立しました。ダッハウ強制収容所もその一つで、最初は共産党員、社会主義者、宗教者、ユダヤ人、常習犯罪者、ジプシー、同性愛者、売春婦などが政治的敵対者の「保護」や非社会的集団の「予防的逮捕」という名目で拘留されました。
1939年9月に第2次世界大戦が始まり、ドイツが近隣諸国を軍事的に制圧すると、ナチスはポーランドなどに民族の絶滅を目的としたアウシュビッツをはじめとする強制収容所を建設しました。以後、ダッハウ強制収容所もアウシュビッツなどに主にユダヤ人を送り込むための経由地という位置付けになったのです。
ダッハウ強制収容所を私たちが訪れたとき、建物の一部は残っているものの、戦前にそこでどのようなことが実際に行われていたのかという収容所の悲惨な実態がこちらにダイレクトに伝わってきませんでした。
ところが、同行者に20年前にもこのダッハウ強制収容所に来たことがあるという同僚議員がいて、彼は「20年前は酷く、言葉では言い表せない具体的な展示物があり、重い気持ちになった」と言います。展示の変更は20年の間に歴史的な事実が風化しているということでしょう。
リトアニアで生々しい歴史の現場を体験
リトアニアは戦後、ソ連に飲み込まれてしまったのですが、1991年9月、ソ連政府が承認して再び独立国となりました(ソ連は同年12月に崩壊)。その首都ビリニュスにはかつてソ連の政治警察KGBの本部が置かれていた建物があります。つまり独立するまではKGBがリトアニア内の治安を担当していたのです。
KGBの置かれていた建物で私たちが案内された地下の天井の低い小さな部屋では、言いようのない寒気を感じました。この部屋はソ連に反抗したリトアニア人政治犯を処刑する場所だったのです。そこで頭に銃口を当てられ1600人以上が犠牲になったと聞きました。独立から15年経ってもなお昔の出来事が生々しく伝わってきます。
以上のミュンヘンとビリニュスでの体験から、私は、まず歴史的な事実というものは厳然としてあるということと同時にそれは風化するものだということを痛感したのでした。
ダッハウ強制収容所の場合、すでに戦後60年以上経って確実に風化つつあります。KGBの地下の天井の低い小さな部屋ではまだ歴史は風化していません。現在平穏に暮らしているリトアニア人の中にも、KGBに処刑された人々やシベリアの強制収容所送りになった人々の遺族や関係者が大勢残っているのです。
平和と平穏な生活を守るのが政治の目的
時間の経過と共に歴史的な事実の風化が避けられないからこそ、私は政治家として、歴史的な事実にけっして目を背けてはならないということ、その上で現実を見つめ、さらに将来を見通さなくてはならないということを改めて肝に銘じたのでした。
もちろん歴史的な事実といえどもその評価については視点によってさまざまでしょう。しかし、そのような評価は学者の人たちの研究に任せるべきであって、政治家という立場では、つねに現実的な目を持って将来を見据えて行動していくべきだと思います。
私は、政治の目的とは「国民が穏やかに落ち着いて生活できる社会を維持していくこと」だと考えています。当然、政治家は、国益の観点から国としてすべき主張はしっかりとしていかなければなりませんが、日本だけでなくどの国でも政治家個人の人気取りのためにナショナリズムを煽るような言動は厳に慎まなくてはいけません。まかり間違えばそれが国同士の対立にも火を点けるからです。
政治家は、相手の国内事情も考えた上で感情的に走ることなく現実的で落ち着いた対応をしていかなければならないと考えます。
「小異を残して大同につく」の意味とは
その点で思い出されるのが田中政権で実現した1972年の日中国交正常化です。72年時点では戦後30年も経っておらず、中国にも日本との戦争に巻き込まれた人がまだ多く生存していました。賠償金も取らないで日本と国交正常化するということには中国国内にも反対意見が強かったのですが、当時の中国の指導者であった毛沢東や周恩来の強力な指導力によってその反対意見を抑えたのです。
もしあのとき、日中の指導者が将来のことを考えないで相手の非ばかりを言い募っていたら、日中国交正常化は成らず、今日のような深い日中関係は築けなかったに違いありません。周恩来は「小異を残して大同につく」と言いました。つまり「小さな違いは後で解決することにして、まずは大きな目的で一緒にやっていくようにしよう」ということです。
これは前述した「相手の国内事情も考えた上で感情的に走ることなく現実的で落ち着いた対応をしていく」ということにも通じると思います。そういう姿勢は、日本の政治家ばかりではなく中国や韓国の政治家にも必要ですし、もとより世界中の政治家に求められることだと思うのです。