【国会レポート】政治と企業経営との違いは一体どこにあるのか【2006年12号】

今回は政治と企業経営の違いについて考えてみたいと思います。11月に行われた米国の中間選挙でブッシュ大統領の共和党が上院、下院共に敗北した結果、米軍のイラク撤退に向けた機運が高まってきました。しかし中間選挙の結果がどうあれ、内戦化しつつあるイラクに米軍が留まることに対して米国内では中間選挙以前から強い反発が出ていました。私は2003年3月に米国がイラク戦争を始めた時点で「この戦争は泥沼化するのではないか」という危惧を持ったのですが、残念ながらそれが的中してしまったと言えます。

戦争は企業経営の手法には馴染まない

危惧した理由には二つあって、まず一つは「強力な指導者の下で国内の対立を押さえ込んでいた国からその強力な指導者がいなくなると国内の対立が表面化するのではないか」と思ったことです。イラクは、フセイン大統領という強権的な指導者(善し悪しは別です)がいなくなって、それまで押さえられてきた宗派間(イスラム教のスンニ派vsシーア派)、民族間(アラブ人vsクルド人)の対立が一挙に吹き出し、テロという形で現れました。それを米軍も鎮圧できずに苦しんでいるわけです。

同じような例にユーゴスラビアがあります。もともとボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニアという六つの共和国から構成されていたのですが、独裁的な政権運営を行ったチトー大統領が死んだ1980年以後、各共和国間およびそれぞれの民族間での対立が起こり、地域によっては内戦状態に陥ったのでした。

私が危惧したもう一つの理由は「米国は戦争を企業経営の手法で主導してしまうのではないか」と思ったことです。ユーゴの場合は内部から崩壊した後、NATO軍や国連が介入して何とか紛争を収めました。イラクの場合、米軍の武力行使によってフセイン大統領を排除したわけですから本来なら米国は細心の注意を払って内戦状態にならないように努力すべきでした。

イラクでのエリートビジネスマンの失敗

イラク戦争の軍事面での責任者はラムズフェルド国防長官で、もともとIT企業や製薬会社の経営者としての評価が高い人物です。政治家というよりは優秀な企業経営者だと言えます。同様の人物にベトナム戦争時のマクナマラ国防長官がいますが、彼はフォード社の社長から国防長官になり、経営と同じ発想で戦争を考えました。つまり、すぐには解決しない国際問題もあるという認識をもたず、また、アメリカの近代兵器と北ベトナム軍の兵力を単純に数式で比較し、必ず勝てると戦争を指導した結果、どんどん泥沼へとはまっていきました。

今回のイラク戦争でのラムズフェルドの発想もマクナマラと似ていると思います。イラクの持つ歴史的背景や風土を無視し、イラク軍を打ち破れば簡単にイラクを統治できると考えていたのではないでしょうか。企業経営だと米国流のやり方が他の国にも通用するでしょう。しかし、戦争は企業経営ではありません。有名なクラウゼビッツの『戦争論』に「戦争とは他の手段をもってする政策の継続である」と述べられているように戦争も政治の一環なのです。私は「戦争は政治の失敗」と考えています。

企業経営の要点は「利益が出るか」と言っても過言ではありませんが、政治が扱うのは「人の感情」です。ベトナム戦争やイラク戦争では、企業経営者が主導したために合理的な思考で事を進めすぎ、人の好き嫌いの感情や面子を大事にする気持ちなどに思い至らなかったのだと思います。

政治が教育の場で担う役割について

企業経営の発想だけでは通用しないものに教育があります。

確かに教育の中にも無駄な設備はつくらないなど企業経営の発想で効率化すべき分野があり、それはそれで実施していかなければいけないでしょう。しかし、民間で行う事業と税金を使う公的な事業との違いをまず認める必要があります。民間の事業は利益を出すことが優先されると共にサービスを受ける側も対価に見合った行き届いたサービスを求めます。公的な事業はそれを受ける人たちの満足度を考慮に入れなければなりませんが、社会全体のコストに合っているかどうかも考えなければいけません。

最近、私の地元にお住まいの朝比奈なをさんという方から『見捨てられた高校生たち一公立「底辺校」の実態』(新風社)という本をいただきました。高校教諭だった朝比奈さんが、なかなか勉学のはかどらない高校に赴任していたときの体験を書いたもので、そこには、勉強する意欲のない高校生たちの衝撃的な実態が描かれています。たとえば、ひらがなが書けない高校生や官製ハガキの宛名の書き方さえ知らない高校生がいるというのです。

他にも初めて知ることばかりが書かれており、私もその不明を恥じているところですが、この本には、現状のままに放置しておいたら「感情・学力・気力など多方面の資質・能力に乏しい大人が増加し、国民主権の民主主義国日本を大きく変えてしまう存在となってしまう」という記述があります。

放置すれば社会の活力が維持できない

要するに、そうした高校生に社会生活をきちんと送れるような教育や職業訓練を行わないと、社会生活が営めない人が増えて社会全体の活力が維持できなくなってしまいます。私も教育委員の方と話した際、実際に300人入学してもたった1年間で150人も辞めてしまう高校があるということでした。まさに「見捨てられた高校生たち」なのです。優秀な生徒は放っておいても自分で勉強できます。そんな子供たちに対して政治がとやかく言うことはあまりありません。

それよりも生きる力がない子供たちをしっかりと教育・訓練し社会に出てもきちんと生活できるようにすべく目を配るのが政治で、逆に言えば、そういうことは政治にしかできません。

自分の力だけではなかなか勉強できない人たちを救うということは、もちろん企業経営の発想には馴染みませんので、だからこそ、そこにはまさに人の感情を扱う政治の力が求められるのだと思います。