【国会レポート】沖縄を考えるのに不可欠な独自の文化圏という発想【2010年8号】

私は内閣府副大臣時代、沖縄振興政策の担当でもありましたので、今回は沖縄の報告をしたいと思います。

沖縄に興味を持ったのは友人が開業した地元の沖縄料理店を訪ねたのがきっかけでした。その友人に誘われて一緒に沖縄に行ったのですが、この沖縄初訪問は13~14年前のことです。

沖縄の那覇空港に降りて車で15分ほど走ったとき、「沖縄としての独自の文化を持っている」というのが私の第一印象でした。沖縄の時間の流れは悠々としており、その時間の流れとテンポは、私たちが暮らしている本州とは異なりました。

沖縄の人々は外交と交易の民だった

かつて琉球王朝の居城だった首里城を見学したとき、併設されていた展示施設で沖縄の歴史を読んで、沖縄は日本とは違うという私の直感の正しさを確信しました。

首里城正殿の梵鐘には「万国津梁(ばんこくしんりょう)」という言葉が刻まれています。これは「世界の架け橋」という意味で、沖縄の人々は昔から中国や東南アジアとの交易を通して人と文化の架け橋を担ってきたのです。沖縄の人々がこうした外交と交易の民ということは日本本土ではほとんど知られていないと言っていいでしょう。

1609年から薩摩藩の支配下に入った後も、琉球王国は中国と数年に1度お互いに使節団を交換していました。中国から琉球王国は独立国として認められていたわけで、これは裏を返せば、琉球王国は当時、薩摩藩と中国に対する二元外交を行っていたということです。

琉球王国は廃藩置県によって沖縄県となり、第2次大戦後は27年間米国の支配下に置かれましたが、その間、琉球政府として切手を発行していたという事実もあります。

沖縄は1972年に返還されたのですが、この時の「核抜き、本土並み」とは、基地負担も本土並みと考え、沖縄の人々が本土復帰を歓迎したと沖縄出身の友人から指摘を受けた事があります。しかも、戦争中に地上戦があったのは主に沖縄だけでした。にもかかわらず、日本に復帰してくれた意味を私たちはもう一度噛み締める必要があると思います。

ところで、ドイツは東西ドイツに分かれていたとき、首都はボンでした。戦前と統一後の首都はベルリンですが、「首都がボンかベルリンかでドイツ人の発想も変わる」と知り合いのドイツ人から言われたことがあります。ボンだと英国に近い西欧、ベルリンならモスクワに近い中欧なのです。西欧と中欧では政治の発想や姿勢も自ずと変わってきます。

同様に東京と沖縄ではずいぶん違ってくるのです。沖縄の位置は台湾や中国と非常に近く、まさに東南アジア圏に入っています。たとえば琉球王国時代からシャム国(現在のタイ)との交流が活発で、酒の蒸留技術も15世紀頃にシャム国から琉球に伝えられました。以来、沖縄の酒の「泡盛」にはタイ米が使われています。

まず沖縄との信頼関係を築く

沖縄の人々は外交と交易の民で、中国や東南アジア地域との付き合いも深く、日本本土とは異なる文化背景を持っています。私は沖縄が大好きなのですが、副大臣として沖縄振興に取り組むとき、以上のことをしっかりと踏まえたいと考えました。

そして、できるだけ沖縄の皆さんの心情を汲み取り、要望を理解した上で、予算の編成に取り組みました。

沖縄県知事をはじめ沖縄の各市町村の首長や議員の皆さんの陳情を受けたのですが、副大臣として一番気をつけていたのは、陳情に来て頂いたすべての方と必ず直接会って話を伺うということでした。それがやはり地域の要望をしっかりと受け止める大前提と思ったのです。

また、沖縄の人々は外交と交易の民としての知恵を持っています。その知恵をお借りするためにも、まず沖縄の人たちと信頼関係を作ることに心がけました。

出張した際には、例えば、視察を踏まえ県庁の幹部職員の皆さんと2時間に及ぶ意見交換を精力的に行なったり、市長さん、町長さんと一緒に現場に足を運び、そこで現状の説明を受けたりと、現場主義を貫きました。陳情や要請が叶わないことも多いのですが、誠意を尽くすことでご理解を頂くよう努めてきました。副大臣を退くにあたって、沖縄県選出の議員の方から「もっと続けてほしかった」と言われ、「政治はやはり相手の立場に立って物事を考えなければならない」と改めて痛感しました。我が国を見つめ直す1年間でした。

沖縄の多文化が生み出す新しい文化

沖縄が日本に復帰してもう2年で40年。政府でも沖縄振興策を10年ごとに見直しているのですが、41年目からは沖縄の自立を考えるという方針です。

沖縄は130万人もの人々が多くの島に分散して住み、多様な文化が混在している地域でもあります。物作りは難しいものの、多様な文化と共に優れた観光資源があるという地理的な優位性を活かせば、潜在的な魅力をもっと掘り起こせるでしょう。言い換えれば、琉球の古典文化、米国の文化、本州の文化などが混ざり合い、触発し合って新しい文化が生み出されてくる可能性が高いという点に沖縄の魅力があるのです。私も今後、そういう観点から沖縄振興計画作成に取り組んでいきたいと考えています。

外交は国力対国力のぶつかり合い

さて、尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した一報を聞いた際に、私も怒りを禁じ得ませんでした。しかし、互いのナショナリズムを煽るのは簡単ですが、それは引き返せない対立を生む恐れもあります。「戦争は政治の失敗」と考えますので、主張するところはお互いに主張したとしても、根底には両国の政治家の信頼関係が必要と思います。

新人議員の時に、北京で竹下登首相時代の在京中国大使とお会いしたことがありました。その方の話によれば、「青年団の交流で訪日した際に当時青年団団長であった竹下氏と知り合い、その人間関係が、後に日本国首相と中国大使という立場になってから両国間の幾多の難問を解決することに貢献した」そうです。つまり、人間的な信頼関係があれば、国家間の紛争が起こっても解決が容易になります。

もう一つの側面として、外交は、経済力、軍事力、政治の安定性、人口動態など、国力対国力の激しいぶつかり合いでもあります。諸外国に隙を与えずに外交を有利に運ぶためにも、国力を常に維持し続けることが重要です。外交上の譲歩は相手国が疲弊した時により多く引き出すことが容易になります。例えば、中国は、一人っ子政策で、後20年経つと日本を抜いて世界一の高齢化社会になりますので、中国の国力を考える際には、そのことを踏まえることも必要なのです。